2017.03.28 Tuesday

運命的なもの / 「マチネの終わりに」平野啓一郎

 

天才ギタリストと、国際的ジャーナリストであるアラフォーのふたりの、偶然と必然の波間を漂う運命的な大人の恋愛小説。ある種非凡なふたりの物語ではあるけれど、年齢的に積み重ねてきた現実や諦念といった普遍的な人生の悲哀を共有しながら、読み手はそのリアリティ溢れる大人の恋愛心情に共鳴してしまう。

 

平野さんの小説は、とても思慮深く温かい洞察に満ちているのに、過剰に感情的ではなくある種とてもソリッドな部分があって、それがとても理性的で心地よい。さらに軽薄さの微塵もない清潔さに後ろ盾されたユーモアはとても品が良く、確かな美意識に心打たれます。まさに平野さんご本人のイメージに重なります。

 

若い男女の熱い恋愛小説はなかなか感情移入しにくいけれど、平野さんの書く恋愛小説は、例に漏れず深い洞察と示唆に富み、読み手は共感する以上にさまざまな気付きに誘導され、開眼させられるのです。"会ったのはたった三度"という非常に特殊な愛の生い立ちとその「感情生活」(という言葉を平野さんは序文で使っていた)を、小説というカタチで最も親しい目撃者として辿る読書体験は、贅沢他ならない。

 

この小説は主題が複数あり、それらが見事に絡み合っていて、その複雑な人間活動のリアリティに引き込まれます。読み方(読み手?)によってその主題の抽出は変わる気がしますが、ネタバレを避けながら、私が個人的に幾つか感銘を受けたポイントをまとめました。

 

偶然なのか、運命(必然)なのか

 

運命的な恋は、必然のような偶然によって着火される。偶然には、平凡な出会いを運命の出会いに変えるチカラがある。一方で、多くの偶然は、必然にすらならないまま過ぎ去っていく。なにが偶然を必然たらしめるのか。それはあくまで後の解釈であり、振り返るその時の視点によって意味づけられた過去のありようである。

 

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は未来は常に過去をかえてるんです。変えれるとも言えるし、変わってしまうともいえる。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?

 

本作で何度も登場する、有名すぎる一節。どんなに前向きに生きようと、過去を全て忘れ去ることは難しい。過去に引きづられないで生きることは、大抵の人にとって容易ではない。そんな中、この一節によって過去ー現在ー未来というリニアな時間観に、まったく別の主観世界という側面があることに気付かされる。こんなにも優しく過去を照らし、未来に希望を繋ぐ言葉にかつて出会ったことがない。現在の新たな気づきによって、過去が、その意味がどんどん塗り替えられて行く…。物語の中では、そんな瞬間が度々描かれている。

 

数限りない出会いや人間関係の交錯の中で「あの日あの時あの場所で君に会えなかったら…」(あれ?小田和正?笑)「明日になれば君をきっと今よりもっと好きになる」こともなかったかもしれない。恋愛の始まりは、あの日あの時あの場所で出会った偶然そのものではない、その偶然に意味を見出した2人だ。

 

物語のなかで蒔野と洋子は会えない日々の中で「話したい/語り合いたい」という焦燥に互いの想いを昂ぶらせている。始まりは、お互いの才能や生い立ちへの、羨望や尊敬を基盤とした自己補完的なコミュニケーション欲求だ。ただし、愛する人との出会いは新たな自分との出会いであり(同時に別れというのは、その人といるときの自分を失う欠損であるからこそ)向かい合うふたりの対話はかけがえのないものになっていく。私たちは、出会いに対して主体的でなければならない一方で、その意味付けはかくも不確かな自己充足であるということはとても現実的だと思った。それを過剰な演出で取り繕わない平野さんの理性的な物語の運びがすごく好きだ。

 

幸福への罪悪感

 

ふたりの主体的な意思が偶然の出会いを必然たらしめた一方で、逆らう術のない運命論こそが救いとなることもある。凄惨な戦争を目の当たりにしながらもなお、清廉な志と強い職業意識を持ち続けた結果「自らの無力さへの自責」に苛まれる洋子に、映画監督である父がかけた言葉がとても印象深かった。

 

自由意志というのは 、未来に対してはなくてはならない希望だ 。自分には 、何かが出来るはずだと 、人間は信じる必要がある 。そうだね ?しかし洋子 、だからこそ 、過去に対しては悔恨となる 。何か出来たはずではなかったか 、と 。運命論の方が 、慰めになることもある 。

 

洋子は、イラク赴任中に遭遇したテロによってPTSDを抱えた不完全な自分を、愛する人に委ねることを拒んだ。もとより、自分の中に相手への恋情を感じた途端、人は臆病になる。全て明け渡して落ちてしまいたいと願う心とは裏腹に、相手を慮るがゆえ、自らの全てを受け渡せない。しかしそんな自分の弱さを、自分で引き受けようとする大人の覚悟が、時に悲しいすれ違いを生み出すこともある。

 

多くの理不尽や人生の不平等さを知る大人だからこそ、謙虚さや人生のあらゆる悲哀に対する思慮は深まる。そして同時に、そういった現実に誠実であろうとすればするほど、己の無力さに罪悪感は募る。そういった罪悪感は、自ら掴みかけた幸福をかき乱すこともある。愛する人を含めた世界に対して誠実であり続けようとすることは、希望と諦念の間でもがき続けることを意味する。

 

静寂、あるいは沈黙

 

この小説は、全編に渡って、クラシックから往年の名作ポップスまで様々な音楽が登場する、美しい音に溢れた物語である。でも一方で「音楽の美 vs 静寂の美」という音楽理論から、コンサートホールの静寂、死者たちの沈黙、洋子の父の沈黙、天才ギタリストのスランプなど、真空のような静けさが各所に散らばっている。

 

たとえば会話の中の一瞬の間。または語られようとして飲み込まれた言葉達が譲った席には、沈黙が鎮座している。それらの静寂が意味するものは、心の距離が移動する時間だったり、未来へとのびる希望と諦念の分岐点だったり、物語の転換点のような意味を持っている。

 

転換のための静寂、あるいは沈黙。私達はあまりにも多くの喧噪に囲まれていて、耳を澄ますことを忘れ、その静けさを見落としてるのではないか。幾重にも重なり飽和した言葉や喧騒に埋め尽くされた現在に、いくばかの静寂を招き入れることで希望なのか諦念なのか、いずれにせよ新しい未来への道が拓けることを感じさせられた。

 

 

***

 

 

最後に冒頭の運命論に戻るが、恋愛のような強い執着には、多少の偶然による思い込みは必須であると思う。わたしはこの本が、すごく好き。恋してるみたいに、出会うべき時に出会うべくして出会った、特別なものな気がする。でももし主人公がギタリストでなくバイオリニストだったら…?ここまでこの作品に執着しただろうか?

 

ギター弾きだった父(今も健在だけど、10年ほど前の事故で左手の指を無くしてからもうギターを弾かなくなった)のお陰で、幼少期から数々のクラシックギターの名曲をよく耳にしていた。休日にステレオから流れるナルシソ・イエペスのアランフェス協奏曲、なんとかのひとつ覚えみたいにぼんやりと遠くを見ながら父が奏でるアストゥリアス、アルハンブラの思い出等、クラシックギターの音は、父親との繋がりや無邪気な子供時代の自分を感じさせられる。だからこそ、親しみや愛着を感じるのかもしれない。

 

愛することは、その人の過去も未来も人生ごと引き受けることだとしたら、今その瞬間だけでなく、未来にのびる線をつなぐ、もうひとつの点がきっとある。たとえば過去の繋がりのようなものが必須になってくる。それが凡庸な出会いを運命に変える条件なのかもしれない。

 

と、相変わらず最後が雑…長文乱文失礼しました。

とにかく、美しい音楽と、分人主義や死生観など平野さんらしい哲学的な示唆に富んだ素晴らしい作品でした。

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、コンピレーション・アルバムの演奏をされている福田進一さんの、このアルバムのタンゴ・アン・スカイがすごく好きです。奏者によってずいぶんと変わる曲ですが、個人的にはこの緊張と弛緩のバランスが一番好きです。

 

2017.03.03 Friday

相対的自我の葛藤 /「砂の女」安部公房

 

ずいぶん昔に読んだけど、今まで読んだ本の中でも圧倒的に不快で、活字で扇動されるそのなんともいえない気疎さが、ものすごく身体的で、ゆえに恐ろしくて、印象的だった。

 

週末お酒の席で話がでて、ふと検索したらフルバージョンyoutubeに上がってることを知り、眠り際うつらうつらしながら2時間。

映像でみる砂地獄は、驚くほど、活字で読んだときに頭の中に広がった光景そのもので。その地獄は “社会的な”人の自我を、濡れ和紙を重ねて息の根を止めるみたいに少しづつ、でも確実に毀損壊滅する。その陰湿な威圧感を前に、人が持つ社会性が如何に脆く危ういものか。狂気が人ひとりの人生をいたぶるように飲み込んでいく光景は、身震いするほど恐ろしい。紙一重だから。

 

ところで安部公房の小説は、すごく男っぽい。「箱男」「壁」しかり。男性作家の作品にも、大なり小なり女性ぽさは、ある。安部公房の作品には、それをまったく感じない。男は乾いていて、頑なで、stiffで、偏執的で、孤独で、いつも社会性の中で溺れている。登場する女たちは大概「なにか柔らかいもの(または性的なもの)」であり、理解の対象ではない。女の私には、そんな安部公房の世界が、ものすごく「男」に見える。性や暴力ではなく、相対的な自我によって生み出される葛藤と狂気。

 

囚われて、そして自我を失っていく人の姿でいうと、桐野夏生の「残虐記」もそうでしたが、「砂の女」の凄みは、ストックホルム症候群の叙情的なドキュメンテーションではない。そんな男性性の抱える危うさを、身体的な“自我との対話”まで昇格させる。砂地獄(乾き・砂まみれのセックス)という不快極まりない舞台は、読み手の身体的記憶に訴えかける。そして凄まじい気迫で、“自我”というリアリティに迫ってくるのだ。

 

こんなすごい映画がyoutubeで全部見れちゃうとか…!

 

 

 

 

2017.02.22 Wednesday

後悔を受け入れること /「Tokyo Love Story ~After 25 years~」 柴門ふみ

 

東京ラブストーリー、その後。再会したリカとカンチ。そしてさとみ、三上、尚子と勢ぞろい。抗えない過去と、積み重ねた時間の重さ。単行本にはビックスピリッツに掲載された話の続き、三上とさとみのエピソードも描かれているけど、やっぱりリカリンに泣かされる。再読なのに鼻が詰まるほど泣いた。

 

最大の号泣ポイントは、リカの息子への教えの一節。

 

「大きくなって、本当に何もかも大好きな人に出会ったら…すぐに結婚するのよ。手放しちゃダメ!大好きな人を手放しちゃった、それがママの人生、たったひとつの後悔」

 

後悔。

 

リカほどの勝ち気な女が、人生に後悔を残すのか、というショック。過去の悔恨は、未来において現状肯定のための不可欠な失敗として正当化される。過去の正当化は、未来へ前進するための原動力なのだ。激辛たこ焼きロシアンルーレットで、「あー!あっちの鰹節パリッパリのほうにしとけばよかった…!」ってレベルの後悔とはわけが違う。

 

もしもあのとき…。 その「もしも」の未来は、自分が生きているかぎり影となってつきまとう。数々の分かれ道の果てに、今を生きている自分は、選ばれなかった未来の「そうじゃない自分」とともに生きているとも言える。後悔とは、そんな深い影を常に背負い振り回され生きていくことだ。後悔は人生を生き辛くする。

 

大好きな人を手放した後悔を背負って不自由に生きる。最初はリカの強さゆえの生き様と思ったけど、違う。リカは、自分の人生を生きることをやめていた。息子のため、見知らぬ若者たちのため、末期を迎えた元不倫相手のため…。自分の人生を生きるのをやめたリカだからこそ、その後悔を受け入れられるんじゃないだろうか。自分の人生を手放すことで、カンチを手放した後悔をいつまでも温め続けている。

 

かつてリカは、全力で全てをさらけ出して、カンチにぶつかった。それでもなお、カンチはリカを受け止めてくれるのか、まるでカンチを試すように。カンチを好きで、カンチを好きな自分が好きだったから、リカはカンチを好きでいるために、ぶつかり続けた。そして、カンチのキャパが決壊する前に、カンチへの愛を手放すより、カンチを手放すことをリカは選んだ。

 

リカはそういう女だ。それは、大事なものを守るために全てを捨てる意思の強さといえばそうなのかもしれない。

 

再会したリカの変わらぬ姿に「いい女になったなぁ/ホントになんでオレたち別れちゃったんだろうなぁ」と呟いたカンチの言葉にリカは一瞬苦しげな表情を見せる。「オレにもう少し強い気持ちと覚悟があれば、二人に別の人生がー」と思い巡らせるカンチはリカほどの暗い影を背負っていなかった。 カンチへの大き過ぎる愛は、重過ぎる後悔に形を変え、25年後もまだリカの中に息づいていた。東京ラブストーリーは、25年経っても変わらぬ、リカリンの人生をかけた壮大な片思いのお話だった。

 

 

  

2014.01.11 Saturday

反省☆トゥナイト/「ときめきトゥナイトー真壁俊の事情」池野恋



少女漫画雑誌りぼんの黄金期を飾った名作「ときめきトゥナイト」。
その番外編「ときめきトゥナイトー真壁俊の事情」読みました。

これは、ヤバい。

思い出補正も多分に反映されてるんですけど、ほんとコッテコテの元祖少女漫画に、泣けましたよ。みんなストーリー大筋は知ってると思うのでネタバレもなにもないんですが、概要としては「ときめきトゥナイト」初代ヒロイン江藤蘭世の初恋の人、真壁俊くんの視点で描かれた、蘭世と出会う前〜結婚するまでの間のお話。

何が一番泣けたって、わたしもいちおうまだ女子のはしくれなんだなっていう気付きに泣けましたよ。30超えて今更、パフスリーブのワンピースやら丸襟のブラウスやらを着たうぶで純潔な清純乙女に共感もクソもないんですが、心清らかな少年少女が報われる物語に心洗われちゃったりなんかして。少女漫画ってスレた大人の情操(調整)教育に役立つんじゃないかしら。

はんぱない「清らかに、まじめに生きてればいいことあるよ」感。
なんというか、反省するわけです。自分、ヨゴレたな、と。

そして、

「今日からは、純潔な少女のように清く正しく生きよう!」

と、誓いをたてたくなる訳です。


「・・・・・・・・・。」


まぁ、それはともかく・・・

リアルタイムで読んでた頃はまったくピンと来なかったのに、30超えて初めて真壁くんの良さに気付いてしまいました、ええ。遅咲きです。ぶっきらぼうだけど、常に一途で正しき心。愛する女性をまもる強い肉体。真っ直ぐで濁りのない瞳(漫画だけど)。そして長身超絶イケメン(漫画だけど)。いったいどれほど多くの少女たちをキュン死に追いやったのでしょうか。罪作りな男。真壁くん。


初代ときめきトゥナイト現役世代(現30〜40代女子)の晩婚化の一端に、「幼少期にスーパーいい男(=真壁君)を知ったため、3次男子に対するハードルが異常に高まってしまった説」があると聞きました。

ほんとかいな。

( via 独女通信 私たちが独身なのは「ときめきトゥナイト」真壁俊のせい!? )

真壁くんに恋いこがれて(でもいっこうに紙の中から出てこない)、そしていつかこんな王子様に出会えるんじゃないかと願い待ち望む日本中の(元)少女達の祈りと絶望を集めたら、まどかが魔女になるまでもなく余裕でエントロピーを凌駕するエネルギー回収できるんじゃないかしら。

というわけでリアリティを見つめ直したいと思います。

 
<うろ覚え書き真壁くんvsリアル風真壁くん>





ドヤァ。





くっそ、ゴツいwwwwwwwwww



まぁ、プロボクサーですしね (*´艸`*)
ポイントは上部僧帽筋ですw




さて、答え合わせ。




↓本物




行く行く!全力でイキます!

(すでに誓いは無意味に)


・・・じゃない。


ぜんぜんちがったwwwwww


そもそも漫画風もだいぶ違ったwwww
真壁くんファンの方、ごめんなさい。
でも現実直視したら何か変わるかな、っていう挑戦でした。

つまりなにが言いたかったかというと、
「とっても心が洗われる(※)いいお話だったので同世代女子はぜひ読んでみてね☆」
※擦り切れた絹を荒い洗濯板でゴシゴシ手洗いするような暴力的な洗浄感。

っていうアレです。

あと、男性の皆様には(私のような)三十路ビッチにもちょっとくらいはこういう少女っぽいファンタジーが残ってたりもするのよってこと知ってもらえたらうれしいです。はい。





2013.08.11 Sunday

堀口大學「彼等」と、ラディゲ「肉体の悪魔」

何年も前にどこかで読んで以来、すごく心に残っている詩があります。 時々思い出しては、その一節を反芻して楽しんでいましたが、改めて手元に持っておきたいと思い、うろ覚えの節を手引きに検索しまくって全文再読することができました。



堀口大學「彼等」

彼等はよく知る、
よろこびに
果て(はて)のあることのかなしさを、

彼等は知らず、
かなしみに
果のあることのかなしさを。


そして改めて再読して気がついたことがありました。

果てのあることのかなしさを、よろこびの終わりを「果て」と表現しているのに対して、

果のあることのかなしさを。

かなしみの終わりを「果」と表現しています。

「果」と言えば、成長した果てに成る果実。よろこびに果てにかなしさがあるのに対して、かなしみの先の「果」があることをかなしさといっている。最後の「かなしさ」だけ次元が違ってくるのです。また、「果」は「果実」であると同時に「果て」でもあります。因果の「果」です。かなしみの果てにもかなしさがあるという、かなしみの円環性も感じられます。

この詩は感情の刹那を詠っているのではなく、よろこびの空しさとの対比のなかに、かなしみの根深さを切々と詠っているのです。そこには悲壮感ではなく、ただありのままにかなしみの諸行を受け止める孤高の詩人の魂を感じます。 「果て」と「果」、たった一文字の違いですが、改めてこの詩の深さに気づいてぐわんと心揺さぶられた気分です。なんでこんな大事なこと初見で気づかなかったんだろう・・・・。

余談ですが、好きなものというのは連鎖します。


堀口大學は、ジャン・コクトーが溺愛したというフランスの文学青年、レイモン・ラディゲの大ファンだったそうです。若くして亡くなったラディゲの遺作を翻訳したことでも知られています。 ラディゲといえば「肉体の悪魔」(訳者はまた別)が有名です。この作品は、個人的に恋愛小説の傑作と信じてやまないコンスタンの「アドルフ」を彷彿させます。人妻と若い男の恋愛心理小説であるということ、時代は違えど同じフランス文学であるということ、そしてどちらも自伝的な物語として語り継がれていることも偶然ではないように思います。 初めて「肉体の悪魔」を読んだとき(10年以上前ですが・・・)、「アドルフ」ほどの衝撃は受けませんでした。でもこの作品を書いた当時ラディゲがまだ10代の少年だったという事実は衝撃でした。フランス文学らしい緻密な心理描写。とにかく繊細に描かれる心の機微は、読み手の心を否応なく語り部に同調させます。その筆才の鮮やかさたるや。世界と折り合いがつく前の若い感受性は独創的な鋭さがあることは周知ですが、時として、その感性を持ちながら同時に達観した観察眼と成熟した表現手段を持ちうる早熟な天才がいるということにとにかく驚きです。どうしたらそういう人が育つんだろう。同じことをサガンの「悲しみよこんにちわ」を読んだときにも思いました。


サガン、サルトル、カミュ、バタイユ、カポーティ・・・ 私が10代〜20代の頃に読んで影響を受けたり心に残った作品は、フランス人作家によるものが多い。いつかちゃんと腰を据えて勉強してみたいな。


2013.02.18 Monday

「ホットロード」紡木たく

行こうぜ、ピリオドの向こうへ!



iPodのシャッフルで流れてきたチェッカーズの名曲「Jim&Janeの伝説」を聞きながら、紡木たくの「ホットロード」に思いを馳せる移動中。

湘南を舞台に、刹那的で向こう見ずな青春を送る暴走族の少年少女達を描いた「ホットロード」と、バイクのエンジン音で始まるチェッカーズの「Jim&Janeの伝説」。80年代的なものとしてひとくくりで考えていたのであまり気にも止めていなかったのですが、ふと気になって検索してみたら、やっぱり関係あったみたいで。シングルカットで発売されたのもずいぶん昔の話だから、全然知らなかった。

紡木たく「ホットロード」(1986~1987年@別冊マーガレット)

「あのときは 何もみえなくて
人キズつけても 自分の体キズつけてもヘーキで
かっこいーとも思って
悪いことしてもぜんぶ人のせいにしてた
でも 自分がやったことは いつか自分にかえってくる
もし このこと知ってて あの頃にかえれるなら」

ナイーブな非行少女と暴走族の少年の拙くぴゅあな恋愛を描いているように見えて、意外と重要なのはその向こうにある少女と母との関係で。色欲ではなく愛情への渇望。

親との絶対的な共存関係から自立したばかりの幼い自我を持て余し、誰しもが陥る孤独との対面こそが思春期の葛藤そのもので。無意識に渇望する「愛」的なもののつかみどころのなさに戸惑う少年少女達の姿はすごくセンチメンタルで、一生懸命。

大人になって私たちは、こんなふうに一生懸命、生きてるかしら。


 


***

「Jim&Janeの伝説」The Checkers(1988)




ううむ。フミヤかっこいいなぁ。
過剰にキザな仕草とかちょっと変な動きとかすらかえって愛くるしい。

チェッカーズは、歴史とか物語のあるバンドだから面白い。
だから彼らが自ら作詞作曲した楽曲にはどれも等身大の「物語」がある。

九州の片田舎から、実力で抜きいでてた幼馴染の7人組。商品化のためのアイドルフィルターや音楽性の違う作曲家先生方の曲も受け入れ、それでも彼らなりに一生懸命かっこ良くあろうとしたデビュー初期。どこか従順で模範的で、にじみ出る垢抜けなさやフツ〜〜の日本人的世帯感とか美的感覚が、ルーツを共にする者たちを共感させてきた。自分たちで作詞作曲するようになってからは、更に自由に、ありのままの音楽を演じ、素晴らしい楽曲を沢山作っている。「Jim&Janeの伝説」は、まさにそのひとつ。

この曲の作詞は藤井郁弥氏。彼が「ホットロード」のファンだったことからこの曲が生まれたらしいのだが、それもとっても納得感がある。なんだかんだカッコつけながらも、誰しもがもつ思春期の過ちや親への愛情や感謝などを出し渋らない、いい意味での素朴さがある。スノッブな都会やその孤独感とは対岸にあるそんな素朴さこそが彼らの魅力だと思う。



・・・もとより、いきがった男の子のたちが子犬みたいに無鉄砲に、時々真剣に、ぎゃんぎゃんころころじゃれあっているようすは、女性目線にすごく無垢で愛おしく映るものです。




Red=Passion, Enthusiasm 
White= Innocence (Ignorance)
Black=Strength (Stubbornness)
Gold=Golden age of Life
2013.02.07 Thursday

遠藤周作「わたしが・棄てた・女 」と、フェリーニの「道」



ただの女は聖女になれるのか?



-Photo taken at Milan, Italy 2011

「わたしが・棄てた・女」


 「海と毒薬」「深い河」などなど、自らカトリックの洗礼を受けながらも、常に神とは、信仰とは何か、そのアンチテーゼを描き続けた遠藤周作らしい、王道作。

映画は大昔に観たことあったけど、原作はこの歳にして初めて読んだ。大筋は違わないが、映画と原作では読後感がずいぶん違うことにいささか驚き。

暗く・哀しく・センセーショナルに描かれた映画と違い、原作は意外にも静かに淡々と、優しい語り口で「ある愛の形」を描き、じんわりと心に染み込んで来る。

主人公は吉岡という名の、ごく平凡な男。言い訳がましい屁理屈をかざし、うぶで世間知らずな田舎出のミツと関係を持つ。賢者モードになった途端、醜く垢抜けないミツを抱いたことによる後悔と自己嫌悪に苛まれ、ミツをゴミクズのように棄てる。そして後に会社の上役の姪と結婚する吉岡は、欲望の捌け口としての女と人としての女を「区別」する、どこにでもいる打算的で俗人的な男である。

一方、同情心が強く、他人の悲しみにすぐに同調してしまうミツは、いとも簡単に吉岡の屁理屈にとりこまれ自らを「与え」、吉岡を愛し始める。そしてその愛に何の疑いを持つことも無く、ただ一度だけ自分を「求め」関わりを持った吉岡を最期まで愛し続ける。

そして、吉岡にとって人ではなく欲望の捌け口でしかなかったミツは、最期に聖女となり吉岡の心に深く消えることの無い傷を残すのだ。

ミツはただの普通の女である。
ただひとつ違うのは「与えることを厭わない」ということだ。

それが、なんの取り柄もないミツを聖女たらしめる所以なのである。

吉岡という平凡な男との関わりを通して、厚い信仰を持ち、神の教えのもと赦し与えることを全うする聖人ではなく、何処にでもいる愚鈍な女の中に聖女性が描かれる様に、ある映画を思い出した。

古いイタリア映画、フェリーニの「道」。

そこにも、与え続けた挙句ゴミのように棄てられてる女が出て来た。ミツの姿に、粗野で利己的な一人の男を慕い、信仰や打算とは無関係に尽くし続けたジェルソミーナという知恵遅れの道化師の女がかぶって見えた。そしてここでも男は女が居なくなった後、その愛に気づいて悲嘆に暮れるのである。この作品でフェリーニも、聖書のくだりをセリフに引用するなど、ジェルソミーナを聖母マリアのオマージュとして描いている。

どちらも「疑いなく与えることを厭わない愛」を描いているわけだが、わたしはキリスト教でもないし打算的な普通の俗人なので、それを理想や美しいことだとは思っても「正しいこと」なのかどうか、どうしも疑問が付きまとう。

自分の想いに反して、身を粉にして誰かのために生きることは容易ではない。

奪うだけの男に損得を顧みず与え続けることは、自分の幸せを願う人達への裏切りにもなり得るからだ。逆に自分の親しい女友達がミツだったら、ジェルソミーナだったら、「あなたが奪われ続けるのは哀しい。自分を大事にして欲しい」って全力で言ってしまうと思う。平凡で打算的な女は、男の打算にも敏感なのだ。だから、そういう愛の形は、なかなか許されない

自分の幸せを願う人達に対する責任は、意外と重い。

でも、そんな事情は超越して「与え続けること」が許される時があっても、いい。

たとえば、自らの中に新しい命を宿した時。
母子、駆け引きや裏切りのない、ただただ純粋な関わり。

打算的で平凡な女も、子供ができた時はきっと、聖女になれるんじゃないかな。


でもまぁ、自らの責任を全うしながら、全身全霊で愛せる人に出会うことがきっと一番幸せなんでしょうけど。

自分もいつか「幸せな」聖女になる日は来るのだろうか。ふむぅ・・・。


  


あ、浦山桐郎監督の「わたしが棄てた女(1969)」にはうちの母上が出演してます。
ミツの不幸を手引きする悪い幼馴染の女役ですが・・・。
2013.02.02 Saturday

「錦繍」宮本輝


「錦繍」 

 宮本輝さんの作品の中で、最も好きな一冊。 

ある事件をきっかけに別れたふたりが、10年の歳月を経て再会。そこから始まる往復書簡。このものがたりは書簡体でつづられ、互いに悲しくエゴイスティックなやり取りのなかで、ふたりは膠着した10年の月日を清算していく…という諦めと希望にあふれるものでした。初めてこの本を読んだのは学生の頃。その頃は10年なんてとてつもなく長い時間に感じましたが、今となってはその学生時代が10年前。

 「もしもあの時…」 

宇宙のからくり、生命のからくり、生きながらに死する運命と…どれほど高尚な悟りをあてがおうと、それは不本意な別離に突如打ち砕かれた輝くべき未来に対する未練を、飲み下すべくなされた清算にすぎない。

 様々な障壁や心移りより、最も深く心を抉るのは、楽しみにしていた未来が叶わなくなることだ。

 「もしもあのとき…」の分かれ道の果てに、今を生きている「そうじゃない自分」は、その時の未来とともに永遠にパラレルに生きていかなきゃいけないわけで…。 愛した人と別れても、その人と歩むはずだった未来は、自分が生きているかぎり永遠に影となってついてくる。 

別れとは、そんなふたりが結ばれた証を、いかに「高尚な悟り」として昇華することかっていうプロセスってことなのか。これから先も、別れの数だけ影を背負うのか…そんなことを思ったあの頃。

やすやすと過ぎた10年の月日を経て今改めて思うのは、影は背後にしかついてこないということ。ふむ。 

因みに「幻の光」でも思いましたが、宮本輝の書く男は弱くてもろくて感傷的だ。それに変わって描かれる女達は強くて優しくて生命力にあふれている。 これって男性的ファンタジーなのか、真理なのか…。

 どうなのかしら?

2012.08.14 Tuesday

「私の愛した男について」田口 ランディ

不公平な命の前で自らの無力さに迷ったり抗ったりする人々の姿はとてもやるせない。
でも決して絶望的ではない。非力ながらひたむきに生きる。
そんな強くて優しい大人達を描いた短編がよっつ。 

最後のおはなし「森に還る人」は、高齢の親を持つ人はまさに身につまされる思い。 
かつての精彩を失っていく父を、なす術なく見守る主人公。
最後の数ページで、感情が暴発するように紡ぎ出される父とのダイアログが切な過ぎるて死ねる。
202Pをめくる瞬間に涙が溢れてその先が冷静に読めなくなります( ;´Д`) 

ちなみに本書のタイトルに冠された冒頭の作品だけ少し異色。ランディさんぽいといえばぽいか?
高学歴、プライドの高い女が原住民と揶揄するごく一般的で通俗的な男にセックスでのめり込んでいくお話。
自らの社会的存在が生きる価値である世界も、低俗であり崇高である情欲の前では全てが無用になる。 
負けること、負けていくことを受け止めた時、女の真の生命力が開眼する。そんな美学。 

あえて言うなら「受容」が全編に通じるひとつのキーワードなのかな?
しかしランディさんは文章うまいなぁ〜。
とても読みやすいし平易な言葉でもまさに組合せの妙で形容し難いほんの些細な感情の襞が明文化される感じ。

そのキモチよさといったら。

 
2011.11.24 Thursday

「停電の夜に (新潮文庫)」ジュンパ・ラヒリ

寒い冬の日にじっくりと腰を据えて心穏やかに読みたい一冊。
作者は、ググってオドロキ、アメリカに暮らすナマステ美女。

作中に登場するのもアメリカに暮らすインド系の男女。 静かだけど少し暗くて感傷的な短編の数々。タイトルにもなっている停電の夜に紡がれる壊れかけの夫婦の物語はヒリヒリするほどセンチメンタルでした。 

普遍的なテーマとして感じたのは、絶望というよりも、取り返しのつかない人生折々の心変りや哀しさと、日常の些細な事柄を通して繊細に積み上げて納得し、受け入れて行く一生懸命な人々の、生きざまのやるせなさ…かなぁ? アメリカ文化圏で育ったインド人の友達、わたしも何人かいるけれどthird cultureをoriginに持つものの孤独やアイデンティティへの疑問は、日本人とも通じるところあると思う。。

 

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