2013.03.17 Sunday

直視に耐え難い肉と性/フランシス・ベーコン展



直視に耐えぬ鬱屈としたエロス。
その果てに解体された表象としての肉体。
立ち現れる怪物たち。

「フランシス・ベーコン展」忘備録的感想

去年秋、シドニーを訪れた時NSW美術館で開催されてたのに行きそびれて以来、ずっと気になってたのですが、念願の日本開催ということでかなり前のめりにいってまいりましたヽ(=´▽`=)ノ 初めて生で見て知ったこと。
 

ベーコンの作品はどれも反射性の高いガラスで覆われているということ。

反射性の高いガラスを使うと作品を見難くするから普通は好まれないはずですが、ここでは生前のベーコンの意志を尊重してこういった額装になってるらしいのです。その理由として下のような言葉が添えられていました。

「言ってみれば、わたしはできるだけ切り離したいのです。」ーフランシス・ベーコン

ガラス額装もしかり、ベーコンの作品はオーディエンスと作品との間合いの取り方が独特で、それがベーコンの作品に魅せられてしまう最大の理由でもあるのです。

偏執狂的に解体された「顔」という強い表象。または、ベーコンの作品群の中でも特に印象深い、暗く深く開かれた叫びの口唇。それは距離を縮めようと見入るものを深みに誘い込んでいく。 作品に過剰な自我が表出することを畏れ、オーディエンスとのモデレートな対面を求めたのだろうか。そこには見る人に一線を超えさせることを誘う、決して自分から歩み寄ろうとしない偏狭的な内向性を感じてしまうわけです。

不幸が創作を駆り立てる、アンチ・ポップな芸術家のたましいというか。

身体の客体化

また、抽象と具象の混ざり合った表現には、シュールレアリスム的な解体ではなく、どちらかと言えば相互扶助からの自己複製であり、カオスの中の必然性を尊重したオートポイエーシス的なアプローチが見て取れる気がします。

なんていうか、自らの意志を放棄した時、ふと核心へプロトコルが繋がり、何かほかの普遍の意志が流れこんでくる。そんな自動書記に近い何か。

ある意味ネクロマンサー※みたいなもんですかね。
※「あっち側」から「あっち側の人じゃないなにか」を呼び降ろす人。

展示の最後にベーコンの描く身体へのオマージュとして前衛舞踏のインスタレーションが展示されています。わたくしそっち方面は疎いのでダンサーもコリオグラファーもぜんぜん知らず。ただそこに書かれた解説がとても分かりやすかった。

「〜飛ぶことはなく、骨格も輪郭もできる限り忘れて重力と親和的になろうとする身体、なにかを物語るようでポイントからどんどん遠心的にずれていく身体」 そういうネクロマンサー的?なプロセスを通して身体/肉体を客体化することで、身体に象徴される矛盾を描き続けた人なんですね。

インタビュー映像の中で、「この世は暴力にあふれている」みたいなこと言っていたけど、おそらくそれは「生きていること/生まれてしまったこと≒肉体を持て余すことの脅威」という意味なのでは無いかと思いました。

肉体への嫌悪/サルトルの「水いらず」

見終わって真っ先に思ったのが、サルトルの「水いらず」という短編。
実在論がどーとかっていう高尚な話以前に、肉体への違和感や、性的な肉体への嫌悪といったものが「水入らず」を思い出させました。

性的不能者の夫を持つ女が不倫の最中に、階段で逢瀬の相手の視線を背後に感じて「ああ、嫌だ」と思う。(たしかそんなシーンがあった気がする)

それはセックスへの嫌悪故ではない。性的に成熟した肉体を持つ女であるがゆえに、自己と肉体の乖離を不当なものと感じたのだろう・・・と、初めて読んだ大学生の頃そんなこと思ったのです。

ベーコンはハードMの同性愛者だったようだけど、彼は自分の肉体へ向けられた、自分の性的な視線を畏怖したのではないか。「肉体への嫌悪」とはちょっと違うのかもしれない。いうならば、円環性のナルシズムか。

 

ベーコンの伝記映画「愛の悪魔」坂本龍一が無償提供した音楽と、ベーコンに愛され・疎まれ・壊れていく脆い常人的青年は第に得る・クレイグ。あの精悍でセクシーな彼の苦悶の表情は、なかなか真に迫るものがあり、とっても痛々しく素晴らしい演技でした。









2004.11.10 Wednesday

愛のメタモルフォーゼ

東京都現代美術館で開催している、ピカソ「躯とエロス」展を見に行ってきました。

今、ちょうど卒業制作でわたわたなってる私が受けたインスピレーションに対して、入場料の1000円は安すぎるくらいでした。

私はもともとデザイナーになりたくで今の学科(視覚伝達デザイン科)に来た訳ではありませんでした。ただ、絵を描くのが大好きだった子供のとき、大学っていう機関の存在を知った頃から自分は美大にいくんだ信じて疑わなかったし、高校の時はオーストラリアのタズマニア島にある美術大学に行くつもりでポートフォリオや推薦状の準備を進めてたんです。高校ではファインアートの部門で学術賞もらったり学校を代表して大会に出たりしてたので、アメリカ中部のあるアートカレッジからは、奨学金も出すという条件付きでお誘いも頂いていたし。でも両親の意向でどうしても帰国せざると得なくなり日本の美大を受けることにしたんだけど、油絵(油絵の具使ったこと無かったし)とか日本画とか限定されるのがいやだわっつんで、なんかいろいろ出来そうな視デにきたわけなんです。でも結局大学はいってからほとんどもう絵を描かなくなってしまった。でもプライドだけは残っていて描こうとするんだけど、うまく描けない。描いたとしても、高校の時の自分の絵を超えたっていう達成感に到達できない。のびのび描けない。だから、最後の最後の卒業制作で、その壁を乗り越えたい。自分になにが足りないのか探りたい。そういう思いで今日の展示を見てきました。

2時間以上かけて一人でゆっくり周った結果、絵を描くことに対する自分の勘違いというかおごりのようなものに気づきました。そして、もっと謙虚にならなきゃだめだな、と痛感しました。私は絵を描くとき、なにかオブジェクトを見ながら書くことはほとんどありません。オブジェクトがあっても、見てて見てないようなものです。表現は、想像と画面の中の構成によって行おうとしてきました。真っ白なキャンバスだけをただ見つめることで、次に必要な線や色が見えてくると思っていました。それで表現はできるものと思っていた。でも今日の展示を見て考えが変わった。ピカソが行った、デフォルメやメタモルフォーゼが教えてくれたことは、「見ること」の大切さだ。表現は画面の中での構成だけではない。私はあまりに光を知らなすぎる、形を知らなすぎる。美大生なのに、光や形状といった描写の基本や、デッサンなどを、今まで一度もちゃんと勉強してこなかったことがすごく悔やまれた。

絵には感性と表現力こそがその力であって、技術的な巧さは関係ないと思っていたけれど、やっぱりそれらに加えて技術的な巧さも持ち合わせた絵の力というのはすごいと思った。それが後世まで受け継がれる絵とそうでない絵の違いなのかもしれない。技巧の上に成り立つ抽象表現の訴求力はすごいと思った。ほんとうの技巧とは、見る力だ。

今日見た作品はどれも素晴らしかったけど、しかしやはり、そのなかでもこちらの心まで届く作品っていうのは(人それぞれだろうけど)ほんの一握りだ。しかしほんとうに「んがっ」って思うものは数点あった。偶然のシンクロニシティみたいなものかもしれない。作品が心に響くっていうのは、それくらい神秘的な希少な体験だと思う。

イイとか、感動とか、どういう言葉で表したらいいのかわからないけど、わたしが何かを感じると「んがっ」っていう感じが心に残る。特に記憶に残ったのは、かなり抽象的にデフォルメされた、浜辺交わる男女の絵と、マリー=テレーゼを描いたこれもまたデフォルメされた裸婦像だ。それらは相当デフォルメされていても、その光や形に技巧的な説得力があった。それらにはかなり「んがっ」感が残った。描く(表現する)力は、見る力の上にのみ成り立つものだと思った。見ることをおざなりにしてきた自分に反省した。

どちらにしろ、わたしはやはりデザイナーではないけれど、かといってアーティストと名乗るのはこれまたひどく僭越だ。見た人を「んがっ」って言わせるような、ちゃんと人の心を触れるような表現のはしくれでも触れるまで、ストイックに紙と向き合わなければいけないなと思いました。

大事なのは 「謙虚に:見ること、聞くこと、感じること」。表現(発信、発言)はその一番最後なんかもしらんと肝に銘じるようにします。

「愛のメタモルフォーゼ」

日本では盛者必衰というように、「終わりのないものはない」とか良く言われます。特に今日はエロスを題材とした作品が中心に展開される展示だったのもあり、多くの作品や解説からピカソの情愛を垣間みることが出来ました。ピカソは恋多き画家だったようです。

特に恋愛においては、「終わらない恋は無い」というのは誰もが思うことです。

しかし、物理学における「エネルギー不滅の法則」(各種エネルギーというのは、発散などで形は変えても決して無くならない)のように、恋心も、愛や憎しみに形を変えて流れていくだけで、なにかが終わったわけではないということ。この時期のピカソをはじめとする特にシュルレアリズムの画家が好んで行ったメタモルフォーゼの真意とは、あまりにも名辞しがたい「永遠」の象徴かもしれないと思いました。
2004.07.31 Saturday

LIFE IS LIKE A COMPUTER ART

コンピューターアートの定義

今日、コンピューターアートといって、その実態を具体的に提唱するのは困難極まり無い。作品の制作行程において電子回路を介したものであればコンピューターアートというのかと言えば、ちょっとおおざっぱすぎる気もするが、日本中の「コンピューターアート科」をもつ美術学校のカリキュラムを覗いてみると、それもどうやら間違いでもなさそうだ。要するCG全般、プログラミング技術を駆使した造形表現がコンピューターアートと呼ばれているようだ。プログラミングという電子回路を用いて情緒的感動を創造するこの表現形態の延長線上には、人間の遺伝子学までを視野に入れると本質的な意味において私達の生きる世界と普遍的な同一性がありそうだ。

アートの定義

昨日さんざんうんこうんこいいまくったけど、わたしはアートに関してはよくわからない。何をアートというのかも、どのような行為を造形的創作活動というのかもほんとに難しい話だ。むしろ、アートってひと一人の生き方そのものではないかとも思う。そもそも、絵画や音楽や彫刻だけでなく、小説を書く作家も、独自の思想をつむぐ哲学者も、湘南のハイウェイをノーヘルフルスピートで疾走する命知らずのセンチメンタリストもみんなアーティストだと思う。死を意識するが故に発生する生への執着。そしてそれをさまざまな形で表現する。…というか排泄ね。多くのアーティストと呼ばれる人々は、絵も書き、文章も書き、歌も歌うことで断片的な自己の生の証明を紡ぎ合わせ、その集大成によって個人の世界を築き上げ、集団的構造社会に迎合しない生き方を重んじる。それが人に認められるられない、知られる知られないというのは個々の自己顕示欲や表現へのモチベーションでしかない。排泄行為と排泄物と環境との関係性。それが循環する世界観をもってることがアーティストなのかもしれない。

プログラミングされた「生」

それら個々人の世界観ひとつひとつはそれぞれが個性的な遺伝子的基盤(先天的な因子)をもとに、それぞれ同じものは二つとない歴史的背景(後天的な因子)をもって構成される。それらは電子回路を必要としないが、「生」という存在自体を肯定する現実世界こそが暫定的でしかなく、社会形態学的には電子世界とさほど変わらぬ構造を持っているとも言えるだろう。個々の世界観の構築において後天的な因子はオートポイエーシス的な「現象」でしかない。そこにどのように先天的な因子が働くかというのがアートを形作る必然的要素である。

誰が書いたものか、どういったものだったかも思い出せないけど、以前読んだ論文に「機械は心を持てるか」という議題のもと、ある科学者が行った興味深い実験が報告されていた。生き物の形をしたロボットを、「機械は心を持ち得ない」とする被験者にそれを破壊する事を命じるが、被験者の人間的情緒観念によりそのロボットの破壊は困難を極めたという話だ。なぜにその科学者に、たかが人為的にプログラミングされた人工物の破壊を躊躇するような情緒が働いたかという点にこの実験の命題がある。その生き物の形をしたロボットは、追いかけられれば逃げるようにプログラムされている。磁気に反応するよう設定されたロボットは、まるで恐怖におののく情緒を表現するかのように赤いライトを光らせながらハンマーを振り上げ必死に追いかける被験者から逃げ続ける。逃げながら、悲痛な悲鳴も上げる。これもプログラミングされている。しかし、科学者のアドバイスにより、被験者がハンマーを捨て素手でちかづくと青い光を点滅させなつっこい動作をする。同じくこれもプログラミングされている。ここで被験者は、先ほどとは打って変わって無防備に近づいてくるロボットを破壊する気持ちが揺らいでしまう。しかし、科学者の煽動によりついに素手でロボットをつかみあげ、壁に投げつけ、その移動機能を奪う事に成功する。ロボットはもちろんプログラミングによってだが、悲痛なうめき声をあげ、悲しげな弱々しい光を放つ。そしてロボットは真っ赤な液体までもを分泌する。科学者はそれらすべてがプログラミングによる人為的な反応である事を説明するが、ロボットは移動機能を奪われハンマーによる攻撃が容易である事は分かっていながらも被験者はなかなかとどめを刺せない。その理由は説明するにも至らぬ一塊のロボットに対する「人間的情緒」である。いささか悪趣味な実験ではあるが、ここにコンピューターアートの創造する「バーチャルリアリティー」の真意が隠されているように思う。

コンピューターアートをモデルとした生の真実と哲学的理解

そもそもコンピューター技術の偉大なる発展によって生み出された「バーチャルリアリティー」の世界の誕生こそ、わたしたちがこの現実世界との融和を試みる上で、計り知れない貢献をしたと言えるだろう。要は、人間の遺伝子情報というのも、完全な解明に至れば生物学的プログラムが証明されるわけである。ということは、アートを形成する要素のひとつである先天的因子はコンピューターアートにおけるプログラミングとメタレベルにおいて同じと言える。先に述べた「機械は心を持てるか否か」という議論も、視点を変えれば「私達こそ心を持った機械である」という結論の提唱さえ可能になる。そして、同じ拡大観念上では現世界における歴史的背景という言葉を拝借して述べた後天的因子というものが、多くの哲学者がその論証に尽力し精根使い果たした「意識」という不可解な存在を客体化することも可能になるはずである。それにより、デカルトをはじめとする過去の偉人が証明しきれなかった心身に言論の哲学的アポリアも解消され、「絶対的な客観性というのはありえない」と主張するニーチェさえ、天動説を体系化したプトレマイオスのように忘れ去れる時がくるのかもしれない。そういう意味では、コンピューターアートの本質的意味とは哲学的世界観の縮小版モデルケースとも言えなくもない。…かもしれない。(随分話が飛躍しすぎましたか)
2004.07.30 Friday

アートとはうんこである。



A:こんばんわ。

T:お晩です。

A:さっそくですけど、アートはうんこですか?

T:うんこっていうか、オナニーなんじゃないかって思う時もあります。

A:そんなことみんないってます。もちょっと奇抜なこといってください。

T:くさくないうんこ。うんこで作った作品のお話しましたっけ?

A:ううん。とーこがつくったの?

T:いえ。私じゃないです。

A:くさそうなんで、いやです。

T:いやですか。じゃあやめます。確かに話の内容は臭いです。

A:というかテーマは「いらないもの」でしたよねえ。
いらないものっていうことから、アートって必要なの?っとね。
あたしは排泄物とおもいますけどね。

T:じゃあ逆の発想で、うんこっていらないものだと思う?排泄物って、私実は必要なのではないかなと思うんですけど。

A:いる、とかいらないじゃないとおもうんよ。
だって、排泄されて、土にもどって、こやしになって、そこでそだった作物たべて生きる。循環だよねえ。環境と自分とのサイクル。

T:そういう意味でも「うんこ」って意味はあるけど、排せつする行為自体に意味はあるんじゃないかなぁ。

A:まあそういうふうにいえばそうだよね。でもなんで排泄したいわけ?はらいっぱいだからでしょ。ださないと生きてけない。
うんこしてーーー!!!って思うときある???
あるとしたらどういうとき?

T:ははははは!凄い質問。

A:うははっ。

T:うんこしてーーー!って思う時って、溜ってる時でしょう。いろんなモノや事が。ストレスというか。考えみたいなもの。

A:うんうん。そおだけどさあ、具体的によ。あたしは恋したり失恋したりするとうんこしたくなるわ。

T:あ、わかる!

A:まぁ、あたしの場合は絵を描くんだけどさ。

T:昔自分のことをフッた男のことを思い出すと、いまでもうんこしたくなります。絵を描くのも、写真を撮るのも、文章を書くのも、すべてその相手への腹いせうんこ。

A:ああああ。。。んでもさあ、おもうんだよね、排泄したもん、どうするわけ!?って。だって、だしたうんこだれにも見てもらえないとうんこした意味ないわけじゃん?

T:そうそうそう。

A:そういう腹いせっていうか、あてつけみたいなものもあったりして、ああ〜〜〜自分やっくな〜〜〜とかヘコむわけよ。これが自己顕示欲か〜みたいな。

T:なんか、うんこ投げ付けてぶつける感じ。

A:あははっ!!!うんこ投げつけか!!笑

T:なんか無理矢理な行為だとおもうんだけどね。最近。うんこという行為自体。

A:どういういみ?

T:やっぱりさっきあなたが書いたように、「排せつしたもん、どうするわけ!?」っていう矛盾はついて回る訳じゃん。それ頭で分かっててうんこしちゃうから、ムリが生じて来る。無理というより、矛盾かもしれないね。

A:だしたうんこ、もてあますってこと?
それとも、うんこすること自体に「いいのかな?」っておもっちゃうってこと?
…ってか便秘!?

T:後者です。うんこしながら「いいのかよ?」って思ってる。でも便秘傾向どころか、下痢になっていく一方で。

A:あああ〜〜〜 うすれてきちゃうんだ。水っぽくなって実がないのよねw
わかるわかる。どーーーーーーん!!って出せないのよね。

T:量ばかり増えてしまって、内容が無くなると言うか。全体的に面白みの無いうんこになる。そう。やっぱりね、なんだかんだ言って「どーーーーーん!!」と出したうんこって周りの人が見ても気持ち胃らしいんですよ。

A:うん。いいとおもーよ。自分でもきもちいいし、今まで評価の高かった作品て、自分でも「だしましたっ!!」感がつよかったし、おもいきりいいのが出たと思う。

T:ね。私去年の進級制作で作った作品があって、それって思いっきりなうんこだと思うのよ。自分で。特大のうんこ。だって自分で脱いじゃってるし、コンセプト自体もものすごく内向的で、個人的だし。

A:あーそうだね。あれはうんこだね。

T:でもその分ものすごく周りの評価が高くって、あの「うんこしましたー!」って感じもその評価の中にあって。

A:うんうん。個人的なのがいいかどうかわかんないけど、大事なのは「うんこだしましたーーー!!」感だよね。

T:で、私その時の「うんこしましたー!」感に対して、「これってでもうんこだよね」って言う気持ちが強くなってしまって。今ではあの作品、好きじゃなくなってる。作った時は好きだったんだけど。結局、先に言った矛盾に負けてしまったのですよ。出した後になって。

A:あああ。あたしはそれないなああ。
うんこしたっっ!!!いいうんこだった!!!っていう満足感と開放感っつうの?そんな快感が余韻としてのこるだけ。そのときいいっておもったけど、あとになると…っていうのは、ほんとの排泄とはちがうんでないかなあ。

T:排せつ=流しちゃうから、だろうね。
実際に、あなたのうんこってどんな感じかな?って変な質問だな。

A:いまのところの最大は、


A:これと、


これかなあ。


T:ほう、きれいなうんこですね。

A:ほんとなにかに勝手に手があやつられるかのようなかんじだった。制作してる時。すっごく自由でなにもかんがえてなくてでも勝手にできてくる。そういうかんじなのよね。ほんとに排泄だった。気持ちよくて。すごく。このふたつは評価も良かったよ。いまではもうこんな絵描けないけど。

T:いつのうんこ?

A:高校時代。上の作品は、おかあさんとけんかわかれしたままひとりでシンガポール生活はじめちゃって、いろいろ反省して、自分のなかで母親に対する愛情、ことばや行いにはあらわせないもどかしさが、そのまんまでた。

T:マミーは太陽なんだね。あったかい感じが凄く分かる。

A:下は、当時すごく好きだった人がいて、そのひと結婚してて子供もいて、でもあたしとは微妙な関係で…。プラトニックだったんだけどね。そんなもどかしさ。誰にも言えなかったし。相手の立場もあって。

T:これはあなたとその人なのかな?向き合えることのない予感をはらんだ絵だと思うけど…。描きながら、そういう設定とかは考えたりしていた?それとも気付いたらこんな感じだった?

A:あんまり考えてなかったとおもう。ただ、絵としてどっちがうえでどっちが下とかそういうのしたくなかったのね。とうこはうんこするとしたら、写真なの?

T:写真も多いけど、最近は文章かな。私の日記は基本的にうんこなので。

A:あああ。たしかにね。うんこだよねw あたしも最近はそう。
でもあれだよね。文章って、あまりにも
ものたりない。いいたいことの、何分の一もでない。
言葉にするって、限定行為だよ。

T:一番しやすいうんこって、絵なんだよね。私も。落書きとか。
文章はスピード感が無い。自分の中での話だけど、ああ、やった!したね!っていう迫力とか出しにくい。技術的に足りない部分もあるけど。
今の日記はあなたも私もネット上で公開していて、タイピングだからかな?と思う部分もあるけど。原稿用紙に鉛筆で書くのと、モニタ上にタイピングするのってやっぱり違うよね。

A:うん。ちがうね。タイピングの方が紙に書くより早いし、手直しもらくちんだし。あとは、ネット上に公開されているっていう状態。誰が見てるんだかもわかんないし、誰かマズい人にみられちゃう可能性もあるわけでしょ?そういうドキドキ感というか、スリル。「ここまでかいちゃっていいのかな〜。やばくないかなあ〜。まあいいやっ!」みたいな。スリルだよね。

T:ああー、わかる。
あんなうんこだけどね、実はうんこしきってないんですよ。私他に2個くらい公開していない日記書いてるから。

A:あははっ。全部出しちゃえ。

T:あさこさんあれでうんこ全部出してる?

A:うん。裏blog(このblogのことです)もあるしね。

T:ああ、そうか。そっちもあればうんこしきれるかんじはするね。
じゃあ2個、トイレ持ってる訳ですね?

A:そだねw

T:私3つよ。ふたつweb上。ひとつはMOの中です。誰にも見せられないうんことトイレ。
うんこできない、しちゃいけない状態ってあるのかな?

A:しちゃいけない状況は、あるんじゃない?でもそれって人の価値観とか倫理観。千差万別。

T:うんこできないひとっているんだろうね。

A:いる。それはいるよね。うんこできてよかったね。うちら。うんこさいこー!ってことで締めでもいいかしら!?w

T:ああ、最後に。
うんこできる人って、ナルシストです。

A:そうね。あるいみそうかも知れない。容姿や頭脳じゃないところにナルシズムがあるのかもね。ふふっ。ウンコ・ナルシズム。

T:ね、自分の存在価値を信じているからうんこができるんだとおもうよ。あなたもわたしも。それはしあわせなこと。

A:うん。幸せ。

T:うんこハッピー!

以上、乙女のうんこ論でした。

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