2014.01.11 Saturday

反省☆トゥナイト/「ときめきトゥナイトー真壁俊の事情」池野恋



少女漫画雑誌りぼんの黄金期を飾った名作「ときめきトゥナイト」。
その番外編「ときめきトゥナイトー真壁俊の事情」読みました。

これは、ヤバい。

思い出補正も多分に反映されてるんですけど、ほんとコッテコテの元祖少女漫画に、泣けましたよ。みんなストーリー大筋は知ってると思うのでネタバレもなにもないんですが、概要としては「ときめきトゥナイト」初代ヒロイン江藤蘭世の初恋の人、真壁俊くんの視点で描かれた、蘭世と出会う前〜結婚するまでの間のお話。

何が一番泣けたって、わたしもいちおうまだ女子のはしくれなんだなっていう気付きに泣けましたよ。30超えて今更、パフスリーブのワンピースやら丸襟のブラウスやらを着たうぶで純潔な清純乙女に共感もクソもないんですが、心清らかな少年少女が報われる物語に心洗われちゃったりなんかして。少女漫画ってスレた大人の情操(調整)教育に役立つんじゃないかしら。

はんぱない「清らかに、まじめに生きてればいいことあるよ」感。
なんというか、反省するわけです。自分、ヨゴレたな、と。

そして、

「今日からは、純潔な少女のように清く正しく生きよう!」

と、誓いをたてたくなる訳です。


「・・・・・・・・・。」


まぁ、それはともかく・・・

リアルタイムで読んでた頃はまったくピンと来なかったのに、30超えて初めて真壁くんの良さに気付いてしまいました、ええ。遅咲きです。ぶっきらぼうだけど、常に一途で正しき心。愛する女性をまもる強い肉体。真っ直ぐで濁りのない瞳(漫画だけど)。そして長身超絶イケメン(漫画だけど)。いったいどれほど多くの少女たちをキュン死に追いやったのでしょうか。罪作りな男。真壁くん。


初代ときめきトゥナイト現役世代(現30〜40代女子)の晩婚化の一端に、「幼少期にスーパーいい男(=真壁君)を知ったため、3次男子に対するハードルが異常に高まってしまった説」があると聞きました。

ほんとかいな。

( via 独女通信 私たちが独身なのは「ときめきトゥナイト」真壁俊のせい!? )

真壁くんに恋いこがれて(でもいっこうに紙の中から出てこない)、そしていつかこんな王子様に出会えるんじゃないかと願い待ち望む日本中の(元)少女達の祈りと絶望を集めたら、まどかが魔女になるまでもなく余裕でエントロピーを凌駕するエネルギー回収できるんじゃないかしら。

というわけでリアリティを見つめ直したいと思います。

 
<うろ覚え書き真壁くんvsリアル風真壁くん>





ドヤァ。





くっそ、ゴツいwwwwwwwwww



まぁ、プロボクサーですしね (*´艸`*)
ポイントは上部僧帽筋ですw




さて、答え合わせ。




↓本物




行く行く!全力でイキます!

(すでに誓いは無意味に)


・・・じゃない。


ぜんぜんちがったwwwwww


そもそも漫画風もだいぶ違ったwwww
真壁くんファンの方、ごめんなさい。
でも現実直視したら何か変わるかな、っていう挑戦でした。

つまりなにが言いたかったかというと、
「とっても心が洗われる(※)いいお話だったので同世代女子はぜひ読んでみてね☆」
※擦り切れた絹を荒い洗濯板でゴシゴシ手洗いするような暴力的な洗浄感。

っていうアレです。

あと、男性の皆様には(私のような)三十路ビッチにもちょっとくらいはこういう少女っぽいファンタジーが残ってたりもするのよってこと知ってもらえたらうれしいです。はい。





2013.12.29 Sunday

エドワード・ゴーリーの理性的な闇と猫を握りしてめて唄う娘




Edward Gorey「The Doubeful Guest」

大好きな絵本作家、エドワードゴーリー。出会いは、シンガポールに住んでいた十代の頃。塾の帰りに寄ったオーチャド・スコッツ伊勢丹の裏手、MHVのBookコーナーでした。
一見、この表紙だけ見ると「Dr Suess」みたいなひょうきんさすら感じますが、とんでもない。おそろしく、ダークで、理不尽。奇跡も、シナリオ通りのハッピーエンドもありません。それでもなぜかすごく気になって、それからシンガポール内の大きい本屋さんをめぐって何冊か手に入れました。



「The Hapless Child」

(via HUFFPOST 子供は次々と死ぬのに猫は不当な目に遭わないエドワード・ゴーリーの世界とは?

黒一色で神経質なほど描き込まれ、塗り込まれた不気味な世界。物語は理不尽なほどに残酷。世の中は決して平等でもなければ、ハッピーでもない。上のリンクにもあるように、人より動物にやさしいエドワードゴーリーの作品は、人間の業を冷静に見つめ、悲観する訳ではなく、ただ静かに淡々と滲み出る闇や不幸を描いている。決してオシャレサブカルとかダークファッションとかじゃない、もっとラディカルな誠実さを感じて、不安定なアドレセンスの渦中にいたわたしは、ある種の救済を感じたのを覚えています。

悲運に抗うから人は不幸になる。
静かで理性的な闇はいつも優しいのです。


Edward Gorey 80th aniversary @ google 2013.2.22(奇しくも猫の日!)

※ちなみに、日本で紹介されたのはご本人が亡くなった後の2000年以降のようですが、最近ちょっと人気出てきてるみたいです。個人的なキュンポイントとしては、日本語版訳者が柴田元幸さん!と、いうところ。サリンジャーやポールオースターなど、現代米文学の名訳者さまです。原作版しかもってないけど、柴田さんバージョンもこれから集めて行きたい。もうなにより、「”Doubtful” Guest」を、「”うろんな”客」と訳した柴田さんに敬服です。美しすぎる。

ーそんな、大好きなエドワード・ゴーリーの日本初コレクション展があったことを終了後に知るという不幸が素直に受け止められない業の深い私ですが、悔しさにもんもんとしながら読み返してたらあることに気づきました。

***

最近、アニソン祭りに飽きてYoutube漁ってたら面白いバンドを見つけたのです。
ウィキにも乗ってなくて、いわゆるインディーズバンドっていうのかな?(無知ですみません)

※個人的には「半分個カーディオイド」って曲がすごく好きなんですけど、つべにありませんでした…残念。
itunesにあった。このアルバムの8曲目ですね。

Jazzyな美しい旋律と子気味良いリズムの上を、痛々しい言葉と美しい男声のハイトーンボイスがくるくるひらひらとひるがえってるのです。すごく心地がよくて、このところものっそいヘビロテでリピートしてたのですが、久々にゴーリー絵本引きずり出してたら、なんとなくその心地よさの意味がわかりました。80年代っ子的に歌謡感のあるメロディーラインの馴染み良さはもちろんですが、リリックワークがとても印象的。「前向き成分」が徹底的に排除された陰鬱な世界でありながら、あまり湿り気はなく、全体的に自虐的に茶化された闇がすばらしくポップにバランスを保ってるため、聞き手の精神状態に関わらず優しく暗い心の深みのほうからじんわり響いてくる。

先日年末の勢いで、ライブハウス的なところへ生演奏を聞きにいったのですが、すごくプロフェッショナルな美しい演奏と、ヴォーカルの圧倒的な歌唱力に鳥肌たってしまいました。ちょっと挙動不審ぽい女の子が、猫のぬいぐるみをにぎりしめて唄う姿はとても愛らしいものでした。・・・・あれ?男の娘か。

***

アンプレザントネスの大衆性/

”I'm claiming the right to be unhappy.”
ー「Brave New World」 Aldous Huxley


2013.08.11 Sunday

堀口大學「彼等」と、ラディゲ「肉体の悪魔」

何年も前にどこかで読んで以来、すごく心に残っている詩があります。 時々思い出しては、その一節を反芻して楽しんでいましたが、改めて手元に持っておきたいと思い、うろ覚えの節を手引きに検索しまくって全文再読することができました。



堀口大學「彼等」

彼等はよく知る、
よろこびに
果て(はて)のあることのかなしさを、

彼等は知らず、
かなしみに
果のあることのかなしさを。


そして改めて再読して気がついたことがありました。

果てのあることのかなしさを、よろこびの終わりを「果て」と表現しているのに対して、

果のあることのかなしさを。

かなしみの終わりを「果」と表現しています。

「果」と言えば、成長した果てに成る果実。よろこびに果てにかなしさがあるのに対して、かなしみの先の「果」があることをかなしさといっている。最後の「かなしさ」だけ次元が違ってくるのです。また、「果」は「果実」であると同時に「果て」でもあります。因果の「果」です。かなしみの果てにもかなしさがあるという、かなしみの円環性も感じられます。

この詩は感情の刹那を詠っているのではなく、よろこびの空しさとの対比のなかに、かなしみの根深さを切々と詠っているのです。そこには悲壮感ではなく、ただありのままにかなしみの諸行を受け止める孤高の詩人の魂を感じます。 「果て」と「果」、たった一文字の違いですが、改めてこの詩の深さに気づいてぐわんと心揺さぶられた気分です。なんでこんな大事なこと初見で気づかなかったんだろう・・・・。

余談ですが、好きなものというのは連鎖します。


堀口大學は、ジャン・コクトーが溺愛したというフランスの文学青年、レイモン・ラディゲの大ファンだったそうです。若くして亡くなったラディゲの遺作を翻訳したことでも知られています。 ラディゲといえば「肉体の悪魔」(訳者はまた別)が有名です。この作品は、個人的に恋愛小説の傑作と信じてやまないコンスタンの「アドルフ」を彷彿させます。人妻と若い男の恋愛心理小説であるということ、時代は違えど同じフランス文学であるということ、そしてどちらも自伝的な物語として語り継がれていることも偶然ではないように思います。 初めて「肉体の悪魔」を読んだとき(10年以上前ですが・・・)、「アドルフ」ほどの衝撃は受けませんでした。でもこの作品を書いた当時ラディゲがまだ10代の少年だったという事実は衝撃でした。フランス文学らしい緻密な心理描写。とにかく繊細に描かれる心の機微は、読み手の心を否応なく語り部に同調させます。その筆才の鮮やかさたるや。世界と折り合いがつく前の若い感受性は独創的な鋭さがあることは周知ですが、時として、その感性を持ちながら同時に達観した観察眼と成熟した表現手段を持ちうる早熟な天才がいるということにとにかく驚きです。どうしたらそういう人が育つんだろう。同じことをサガンの「悲しみよこんにちわ」を読んだときにも思いました。


サガン、サルトル、カミュ、バタイユ、カポーティ・・・ 私が10代〜20代の頃に読んで影響を受けたり心に残った作品は、フランス人作家によるものが多い。いつかちゃんと腰を据えて勉強してみたいな。


2013.06.14 Friday

フラペチーノとアルハンブラの思い出

 

仕事のBGMにInstrumentalな曲を探してたら懐かしい曲にぶつかった。 クラシックギターの名曲、トレモロが美しい、「アルハンブラの思い出」。 父が弾くギターを聞かなくなって、何年たったんだろう。

 

2007年07月09日 お父さんの、左手の指が飛んだ。

 

今日夕方、洗濯物を干していたら電話があった。タモリ倶楽部のオープニング「Short Short♪」が着メロで鳴って、取り立て嫌な予感もせずに電話に出たら妹からだった。 「お父さんがリビングの棚を作っている途中に電ノコで指を切った。家の前は血の海で、今聖マリアンナ病院についたの。詳しくはまだ分からないけど、とりあえず報告ね。」 ・・・って、おい!「とりあえず報告ね」って言われても、どうしろっていうのさ。指は、切ったの?取れたの?戻るの?どうなの?!?でも切っただけなら・・・・。

 

我が家はそのころ買った家に引っ越したばっかりで、建築士の父は初めてのマイホームということもあり、お金を浮かすためとか言いつつ張り切って内装のDIYに励んでいた(慣れないくせに)。 わたしは、そんな電話を受けただけで、容態のわからないままどうしたものかと悩んでいた。とりあえず洗濯を終え、しばらくぼーっとしてみたけれど、やっぱり心配なのでちょっと遠いが病院にいくことにした。

 

緊急事態だって分かっているのにすぐ駆けつけることをしなかったわたしは、どこかで現実を受け止められなかったんだと思う。なぜか「どうしようかなぁ?」なんて思っていた。

 

電話から1時間近くたって、ようやくのろのろと家を出た。 途中で母と電話がつながり、父の容態を聞いた。「目の荒い電気ノコギリで左手指先を切断したため、縫合は不可能、壊死を防ぐためにも切断しなければならない。」大っきなサングラスをしていたことが功をなした。歩きながら涙がボロボロ出て来た。大好きなおとうさんが傷ついている。妹は一生懸命、玄関の血の海で父の指の肉片を探したという。

 

おとうさん!おとうさん!!

 

急に事態を理解したパパっ子のわたしは、しょんぼりしてるであろう父の姿を想像したら、いてもたってもいられなくなった。かわいそうでたまらなくて・・・・。

 

とはいえちょっと気を許すとまたわたしの意識はみるみる現実から遠のいた。さっきまであんなにうろたえていたのに、気づくとのんきにコンビニで昼食のビスケットを買い、スタバでぼやぼや油売ったりしてた。

 

空っぽのコーヒーフラペチーノを片手に病院についた時、現実はやはり現実だった。困った顔の母、感情を顔に出すまいと強がりつつも、ややあきれ気味の妹・・・。たいした欲もなく、人を蹴落とすようなズルさもなく、のほほんと妖精のように生きてるうちの父に限って、どうしてそんな目にあうのか・・・。手術は2時間近くかかった。

 

ようやく待合室に呼びに来た医者につれられ処置室のなかに入ると、治療台の上で呆然とした父の姿があった。それは麻酔のせいだけじゃないことはなんとなく分かった。父の白髪まじりのアタマは、鳥の巣のように爆発していた。

 

人は、目にも見えない小さな変化から露骨なまでも大きな変化まで、生きている限り常にその姿を変え続ける。止まることを知らない時間を積み重ねるなかで、まるで肉体を消費するかのように身をすり減らして生きる。

 

その日、その瞬間から父の左手の中指と薬指の先は無くなった。

 

***

 

病院の処置室をでるとき、父が切断した指を持って帰りたいと言って医者を困らせた。

 

父が病室を出た後、「そんな患者さん初めてです。実際のところ法律的にもどうなのかわからない」と看護婦と顔を見合わせる医者に頼み込んで、こっそり骨のかけらをホルマリン漬けにしてもらって来た。ただ父は、小さな骨のかけらにこだわったわりに、ぱっくり切れた指の先にはあまりこだわらなかった。そのあたりは娘のわたしもさすがによくわからないが、骨ならまだしも、それはあまりにグロテスクなので病院のほうで処理してもらうことにした。とにかく、無くなった指先の一部とともに、父はふらつきながら帰路についた。来る時は一秒を争ってカーチェイスばりだったという妹が運転する車のなかで、「お前は運転が荒いから気をつけろ」とかとぼけたことを言う父。

 

その後も「作業が止まっちゃうな」とか「着替えが困ったな」とか相変わらず的外れなことを口走りつつ、ぼそっと「ギターが弾けなくなるな・・・」と言った。

 

ギターはうちの父にとって象徴的とも言えるアイテム。

(厳密にはギターとテニスとピーナッツ。)

 

忙しくしてて、しばらく弾いているのを見たことが無かった。

 

最後に聞いたのはいつだっただろう。

 

スナフキンみたいにギターを弾く父の姿を見て育った私は、 その言葉がなによりも悲しかった。

 

* その日のコーヒーフラペチーノの味は覚えていない。

 

2013.05.28 Tuesday

火曜日/石について

会社の先輩の名言「深読みしたら、それは恋」が忘れられません。

恋をすると、人は相手の言葉のウラを読もうと深読みをしてしまうそうです。
そう言われてみればそんな気もします。

なにかの本で読んだのだけど、昔まだ言葉によるコミュニケーションが一般的じゃなかった頃、恋人に想いを伝えるためのラブレターとして、石を送り合う習慣があったそうな。

それを、「石文(いしぶみ)」と呼ぶそうです。

(いつ、とか、どこで、とかわかんないけど。)

まぁ史実は置いておいたとしても、ふつう「石文」というと、石碑や、石に文字の刻まれたものを指すような気がしますが、この「石文」に言葉はいっさい介在しません。つるつるだったり、ざらざらだったり、まんまるだったり、いびつに欠けていたり・・・。星の数ほどある石の中から、自分の気持ちにぴったりの石を探して、相手に送る。そんな「石」と、「石を受け取った相手の感受性」に全てを託した文なのです。

そもそも有象無象にある石のなかから、悟りでも開けなきゃ自分でもハッキリ定義できない「気持ち」なんていうウヤムヤしたものに、ぴったりの石を探すなんてそう簡単な話じゃないと思います。それでも伝えたいことがあるから、必死に石と自分の気持ちと交互に向き合っていく。そんな努力ボーナスも含めて、「石文」には価値があるんだと思うんです。

しかも、どんなに自分の気持ちにピッタリの石を見つけられたとしても、「石」はどこまでいっても「石」なので、なぁんにも言ってくれないわけで。受け手は石に託された相手の想いを、色やカタチ、手触り、質量などから読み取らなければいけない。(・・・って言ってみると意外と情報多いか?)

兎に角記号的な言語が介在しないから、託されたメッセージの解釈に正否がない。もはやこんな不確かなメッセージがあっていいのかっていうくらい、いかようにでも深読みできてしまう。

逆に言うなら、そこには「圧倒的な曖昧さ」っていう非言語情報がちゃんと成立してる。
曖昧さにはそういう敢えて言葉にしない誠実さとか相手に委ねる優しさみたいなものがあるんだと思うんですよね。

「たとえばなし」とか「深読み」とか・・・・曖昧なものを、曖昧なままにしておく美学。

すごく好きだなぁ。


****


もうひとつ、石といえばで思い出したこと。

これまたよく覚えていないんですが、どこか田舎のすごく立派な日本家屋に住んでた母の友人で、石を集めるのがスキな大好きな「隊長」と呼ばれている人がいました。「隊長」はとにかくまるい石に目がない人で、とにかくたくさんまるい石を集めていました。

ラブレターではないけれど、あるとき私が川辺で拾ったまぁるい石を、母の手引きで「隊長」に送って差し上げたことがありました。

「隊長」はとても喜んで下さったらしく、後日お礼にと、色紙に大きなヤツデの葉とお送りした石を水彩絵の具で描いた絵が届きました。

その絵の中のまぁるい石が、石なのになんかすごくもの言いたげだったのを覚えています。
「なんで、石なのに・・・・」って不思議に思いました。

石の持つ固くて無機的な静けさとはうらはらに、雄弁な佇まい。
デュシャンの「泉」じゃないけれど、誰かの手に取られただけで急にものを言い出す石。

そこに意味があれば、なんでも愛せるというのは人の性分なんですね。きっと。




。。。って、ああああ。だめだわたしやっぱ、ポップになれないなぁ(反省)


2013.05.14 Tuesday

土曜日/日曜日@京都

昨週末、京都に行って来ました。
土曜日にはこのGettaway最大の目的、京都の南座ではじめて歌舞伎観劇に。一緒に行った友人が「たぶん良い席だよ〜」って取ってくれたお席がもう文字通り一等席で、前から2,3列目、花道奈落のまとなり。役者さんの息遣いからおしろいのかおりまで分かるくらいの超近接な距離感。趣向を凝らした演出や、役者さん達の迫力に圧倒されっぱなしの4時間でした。観劇したのは市川海老蔵さんが主演する「伊達の十役」という足利家のお家騒動を描いたファンタジー風味のサスペンス(?)。わたくしまったく歌舞伎初心者なので、同行の友人の解説と事前のウェブリサーチでやっとこお話についていけるレベルでしたが・・・。それでも1人10役をこなす海老蔵さんの早変わりなぞはほんとに見事で、あんなに近くで見てたのにほんの瞬きの間にガラリと違う人になっている様はもはやアクロバティック。すごい身体性を感じる舞台でした。足の爪のさきまで全身で演じてる気迫、そして全身全霊の集中力ってこんなに美しいのか−と感動。海老蔵さん、強い気魄に満ちているのに、類まれな華を持つとても真摯な仕事人っていうとんでもなくいい男でした・・・。友人の熱狂が初めてわかった。



翌日は京都在住の、大学時代の親友(彼女曰くは「悪友」)と共にマターリサンディ。町家でいただくNY風パンケーキ。パンケーキハウス「カフェ・ラインベック」



ふわっふわの、めちゃうま。ブラックコーヒーが合うぅー。



その後は鴨川で夕方までピクニック。皆各々美味しいもの持ち寄って、赤ワインも飲んで、白ワインも飲んで、ビールもシャンパンも飲んで・・・。



楽しかった。

***

そういえば・・・。

土曜日京都駅から南座へ行く途中で立ち寄った、河原町のアンティークショップで出会ったデルヴォーのグラスセットに激しく一目惚れ。時々あるのよね、古美術系は。普段全く興味ないのにふとした時に運命の出会いを感じてしまうパタン。は一点モノっていう価値も掛け合わさって、アンティークへの激しい一目惚れには抗い難い必然性を感じてしまうから困る。

エナメルで絵付けされた向日葵の可愛らしいこと、可愛らしいこと。梅でもない、薔薇でもない、向日葵。明るくて、優しくて、ピュアで素直な向日葵。欲しい・・・でも高い・・・とても珍しいものらしくてホントに高い。たぶんお給料一ヶ月分より高い。ものっそい分割払いで買えなくはないけど、買ってどこに飾ればいいの・・・。でもかなり後ろ髪引かれてます・・・。

週末弾丸京都旅唯一の心残り。

2013.04.08 Monday

日曜日



お気に入りのものをなくしてしまった。

散々歩き回って探したけど見つからなかった。

普段あまりものをなくさないほうだから、
慣れない喪失感にもんどり。


高価なものではないけど、悲しい。

…って書くと余計に悲しい。

悲しいと思うと悲しくて、
無頓着になろうと思えばなれるし、
なれば別に悲しく無いんだと思う。

どっちのモードにスイッチ入れたらいいのか、
分からなくて困る。




2013.04.05 Friday

金曜日



本格的に春。

寒くない。

ぽかぽかする。

週末の嵐で桜も終わりかな。
いつも誕生日の頃まで咲いてるのに、今年は早いな。

この春で、とある個人的な出来事から10年たった。

10年前の春、生まれて初めて自分でハンドリングできないくらいの衝撃に我を失った。
出来事の大きさというより、耐性の有無でショックの大きさは決まる。
そういう意味でこれまでのへっぽこ人生で一番ショックなことだった。

以来、春の匂いとか温度とかによって引き戻されるもののせいで春が嫌いだった。
まぁプルースト効果的な、なにかね。

でもそれも今年でおわり。

ぬるり暖かい空気を素直に喜べるのがうれしい。




2013.03.17 Sunday

直視に耐え難い肉と性/フランシス・ベーコン展



直視に耐えぬ鬱屈としたエロス。
その果てに解体された表象としての肉体。
立ち現れる怪物たち。

「フランシス・ベーコン展」忘備録的感想

去年秋、シドニーを訪れた時NSW美術館で開催されてたのに行きそびれて以来、ずっと気になってたのですが、念願の日本開催ということでかなり前のめりにいってまいりましたヽ(=´▽`=)ノ 初めて生で見て知ったこと。
 

ベーコンの作品はどれも反射性の高いガラスで覆われているということ。

反射性の高いガラスを使うと作品を見難くするから普通は好まれないはずですが、ここでは生前のベーコンの意志を尊重してこういった額装になってるらしいのです。その理由として下のような言葉が添えられていました。

「言ってみれば、わたしはできるだけ切り離したいのです。」ーフランシス・ベーコン

ガラス額装もしかり、ベーコンの作品はオーディエンスと作品との間合いの取り方が独特で、それがベーコンの作品に魅せられてしまう最大の理由でもあるのです。

偏執狂的に解体された「顔」という強い表象。または、ベーコンの作品群の中でも特に印象深い、暗く深く開かれた叫びの口唇。それは距離を縮めようと見入るものを深みに誘い込んでいく。 作品に過剰な自我が表出することを畏れ、オーディエンスとのモデレートな対面を求めたのだろうか。そこには見る人に一線を超えさせることを誘う、決して自分から歩み寄ろうとしない偏狭的な内向性を感じてしまうわけです。

不幸が創作を駆り立てる、アンチ・ポップな芸術家のたましいというか。

身体の客体化

また、抽象と具象の混ざり合った表現には、シュールレアリスム的な解体ではなく、どちらかと言えば相互扶助からの自己複製であり、カオスの中の必然性を尊重したオートポイエーシス的なアプローチが見て取れる気がします。

なんていうか、自らの意志を放棄した時、ふと核心へプロトコルが繋がり、何かほかの普遍の意志が流れこんでくる。そんな自動書記に近い何か。

ある意味ネクロマンサー※みたいなもんですかね。
※「あっち側」から「あっち側の人じゃないなにか」を呼び降ろす人。

展示の最後にベーコンの描く身体へのオマージュとして前衛舞踏のインスタレーションが展示されています。わたくしそっち方面は疎いのでダンサーもコリオグラファーもぜんぜん知らず。ただそこに書かれた解説がとても分かりやすかった。

「〜飛ぶことはなく、骨格も輪郭もできる限り忘れて重力と親和的になろうとする身体、なにかを物語るようでポイントからどんどん遠心的にずれていく身体」 そういうネクロマンサー的?なプロセスを通して身体/肉体を客体化することで、身体に象徴される矛盾を描き続けた人なんですね。

インタビュー映像の中で、「この世は暴力にあふれている」みたいなこと言っていたけど、おそらくそれは「生きていること/生まれてしまったこと≒肉体を持て余すことの脅威」という意味なのでは無いかと思いました。

肉体への嫌悪/サルトルの「水いらず」

見終わって真っ先に思ったのが、サルトルの「水いらず」という短編。
実在論がどーとかっていう高尚な話以前に、肉体への違和感や、性的な肉体への嫌悪といったものが「水入らず」を思い出させました。

性的不能者の夫を持つ女が不倫の最中に、階段で逢瀬の相手の視線を背後に感じて「ああ、嫌だ」と思う。(たしかそんなシーンがあった気がする)

それはセックスへの嫌悪故ではない。性的に成熟した肉体を持つ女であるがゆえに、自己と肉体の乖離を不当なものと感じたのだろう・・・と、初めて読んだ大学生の頃そんなこと思ったのです。

ベーコンはハードMの同性愛者だったようだけど、彼は自分の肉体へ向けられた、自分の性的な視線を畏怖したのではないか。「肉体への嫌悪」とはちょっと違うのかもしれない。いうならば、円環性のナルシズムか。

 

ベーコンの伝記映画「愛の悪魔」坂本龍一が無償提供した音楽と、ベーコンに愛され・疎まれ・壊れていく脆い常人的青年は第に得る・クレイグ。あの精悍でセクシーな彼の苦悶の表情は、なかなか真に迫るものがあり、とっても痛々しく素晴らしい演技でした。









2013.02.18 Monday

「ホットロード」紡木たく

行こうぜ、ピリオドの向こうへ!



iPodのシャッフルで流れてきたチェッカーズの名曲「Jim&Janeの伝説」を聞きながら、紡木たくの「ホットロード」に思いを馳せる移動中。

湘南を舞台に、刹那的で向こう見ずな青春を送る暴走族の少年少女達を描いた「ホットロード」と、バイクのエンジン音で始まるチェッカーズの「Jim&Janeの伝説」。80年代的なものとしてひとくくりで考えていたのであまり気にも止めていなかったのですが、ふと気になって検索してみたら、やっぱり関係あったみたいで。シングルカットで発売されたのもずいぶん昔の話だから、全然知らなかった。

紡木たく「ホットロード」(1986~1987年@別冊マーガレット)

「あのときは 何もみえなくて
人キズつけても 自分の体キズつけてもヘーキで
かっこいーとも思って
悪いことしてもぜんぶ人のせいにしてた
でも 自分がやったことは いつか自分にかえってくる
もし このこと知ってて あの頃にかえれるなら」

ナイーブな非行少女と暴走族の少年の拙くぴゅあな恋愛を描いているように見えて、意外と重要なのはその向こうにある少女と母との関係で。色欲ではなく愛情への渇望。

親との絶対的な共存関係から自立したばかりの幼い自我を持て余し、誰しもが陥る孤独との対面こそが思春期の葛藤そのもので。無意識に渇望する「愛」的なもののつかみどころのなさに戸惑う少年少女達の姿はすごくセンチメンタルで、一生懸命。

大人になって私たちは、こんなふうに一生懸命、生きてるかしら。


 


***

「Jim&Janeの伝説」The Checkers(1988)




ううむ。フミヤかっこいいなぁ。
過剰にキザな仕草とかちょっと変な動きとかすらかえって愛くるしい。

チェッカーズは、歴史とか物語のあるバンドだから面白い。
だから彼らが自ら作詞作曲した楽曲にはどれも等身大の「物語」がある。

九州の片田舎から、実力で抜きいでてた幼馴染の7人組。商品化のためのアイドルフィルターや音楽性の違う作曲家先生方の曲も受け入れ、それでも彼らなりに一生懸命かっこ良くあろうとしたデビュー初期。どこか従順で模範的で、にじみ出る垢抜けなさやフツ〜〜の日本人的世帯感とか美的感覚が、ルーツを共にする者たちを共感させてきた。自分たちで作詞作曲するようになってからは、更に自由に、ありのままの音楽を演じ、素晴らしい楽曲を沢山作っている。「Jim&Janeの伝説」は、まさにそのひとつ。

この曲の作詞は藤井郁弥氏。彼が「ホットロード」のファンだったことからこの曲が生まれたらしいのだが、それもとっても納得感がある。なんだかんだカッコつけながらも、誰しもがもつ思春期の過ちや親への愛情や感謝などを出し渋らない、いい意味での素朴さがある。スノッブな都会やその孤独感とは対岸にあるそんな素朴さこそが彼らの魅力だと思う。



・・・もとより、いきがった男の子のたちが子犬みたいに無鉄砲に、時々真剣に、ぎゃんぎゃんころころじゃれあっているようすは、女性目線にすごく無垢で愛おしく映るものです。




Red=Passion, Enthusiasm 
White= Innocence (Ignorance)
Black=Strength (Stubbornness)
Gold=Golden age of Life

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